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2020年5月21日(木)の南日本新聞朝刊に、記事の掲載をいただきました。

本記事掲載にあたり、2時間ほどじっくりインタビューいただき、写真も丁寧に撮っていただきました。過去・現在の私自身の生き様が盛り込まれた記事になりました。

担当をしてくださった、南日本新聞社枕崎支局長・藤本記者には、心より感謝申し上げます。


|いったい、誰がこんな世の中を想像しただろうか?

私がはじめにコロナのニュースを見たのは、深夜2時か3時の放送終了のあとにダラダラ流れてくる情報番組だった。(よくテレビを消し忘れて寝てしまうことがあって、その時も確かそうだった…)

恐らくまだゴールデンの定番のニュースではそれほど取り上げられてない頃だったけど、武漢で起きたその事態に、身の毛もよだつような恐怖を感じ、ちょっとのあいだ眠れなくなったのを今でもはっきり覚えている。


遠い中国での出来事だと思っていたことが、今、この目の前でも、そして遠い世界の国でも起きている。この事態をどう解釈すれば良いのだろう?

平成生まれの私達は、何度となく「時代の初めての出来事」を経験してきた。阪神淡路大震災、9.11、リーマンショック、東日本大震災、数多くの未曾有(みぞう)の天災、そして今だ。

その度に、色々と考えてきた。社会がちょっとずつ変わっていくのを肌で感じながら。

加えて、自分自身もこの13〜4年の間、あまりにも色々なことがありすぎた。

死を意識するような出来事もあった。


なぜこんなにも何度となく、苦難がやってくるのだろう?

そう思わずにはいられない。

今年は、誰もが幸福になると信じて疑わなかったオリンピックイヤーでもあって、自分自身も起業2年目でワクワクするような、ちょっとだけ背伸びできるようなプロジェクトが決まりかけていた。

今だから正直にいえるが、実はGWの前後数週間、何に対しても無気力な時間を過ごしていた。

普段だったら、新茶と新緑の春に胸をときめかせている時期だというのに、なにもやる気が起きなくて、ちょっとしたアポ以外は、ダラダラとした時間を過ごしていた。

フリーランスの悪いとこでもあるが、自分に自制心が働かなければ、どこまでも堕ちていく。


|今こそ、原点回帰。社会学的視点に頼る

そんな中で気がついたら、30歳になっていた。

コロナの影響も相まって、誰かとお祝いをするんでもなく、電話越しの「おめでとう」と普段どおりの会話を済ませた誕生日。

ふとした会話の中で「哲学的なこと」について話題が及び、ハッと気がついた。

そういえば、私は「社会学」という学問を学んだな、と。

学部生が学んだ社会学的視点なんて、大したことはないのだが、高校を辞めた18〜9歳の頃から鬱積(うっせき)していたモヤモヤを抱えていた私にとっては、自分の指針となった学問だった。


高校をやめて行き場がなくなり家に引きこもったあの頃。

受験に失敗し縁もゆかりもない土地へ行き被災したあの頃。

そして闘病中、病室からひとり桜島を眺めていたあの頃。


今回のコロナウイルスに限ったことでなく、振り返れば、今まで何度となく鬱積した感情を抱えている頃はあった。

その度に、社会と自分との関係性を考えた。

論理で説明がつかないことも世の中には多いけれど、それでも少しでも「自分の中で咀嚼(そしゃく)できるように」頑張ってきた気がする。

そう、今こそ社会学の理論書をひっぱり出してきて、こっそりと夜な夜な読む時だ。

そう思ってページを読み進めていた矢先、SNSで「バトンリレー 」なるものがまわってきた。私が受け取ったバトンは「ブックカバーチャレンジ 」というもの。


|ブックカバーチャレンジというバトンリレー

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ブックカバーチャレンジとは

・好きな本を一日一冊、7日間投稿する

・本についての説明なしに表紙の画像をアップ

・毎日FB友だちを一人招待してチャレンジに参加してもらう

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というものらしい。


調べてみると、このバトンリレーに対しては、どうやら賛否があるらしい。

これさえも社会ネットワーク理論そのもののような気がして、つながり方・波及自体も関心があるけど、いずれにしてもこの混沌とした世の中に、あえて「バトンで人と人をつなげる」といういう行為自体が、そもそも興味深い。

いや、そんなことを分析していると途方に暮れそうだ。

ということで、前置きが長くなったけど、素直にバトンを引き継ぐこととする。

ただし私は、バトンは人に回さないことにした。

加えて、このリレーは書評を書くものじゃないらしいのだが、私はちゃっかり書評じみたことも書いている。

今回、選んだ本のテーマは、「今こそ再読したい本7選」だ。社会学的な本にはじまり、人生の節目や危機で指針にしていた本を、ここに紹介したいと思う。

(今こうしてこんな記事を書こうと思うきっかけをくれた、バトンパスしてくれた友人に、心から感謝したい。)



Book1|社会学 New Liberal Arts Selecction 

いきなりだが、ブックカバーがない。。笑

焦って、表表紙を撮ってみた。(表紙はボロボロになって捨てたんだったかな…)

この本は正真正銘、大学の編入試験の勉強に使った理論書でちょっと読み込み方が異常。

でも、実は様々な事象に対して、ある程度一定の「解」をくれる本だと(今の私は)思っている。私も、試験勉強じゃなかったら、絶対に読んでない本だけど、この混沌とした世の中だからこそ、みなさんにもオススメしたい。

余談だが、この編入試験の時は、後にも先にもこんなに人生で勉強したことはなかったと思う。

Book2|ソーシャル・キャピタル入門

稲葉陽二さんという経済学者の本で、この本は大学のゼミ(私の尊敬する恩師・仁平典宏先生)の課題図書だった。当時、ゼミでは「東日本大震災」の被災地のその後についての調査研究を行っていて、「社会関係資本」をはじめとする、「人と人や社会との相互作用(関係性)が与える影響」について、真剣に考えていた。

”ソーシャル・ディスタンス”のこの世の中、一体、私達がどこへ向かっていくのか…、この本をもう一度読み直して、思いを馳せたいと考えている。


Book3|市民社会とは何かー基本概念の系譜ー

昨年12月に、地域でNPO法人を立ち上げた。

私にとっては、大学時代から数えること8年越しの考えと想いを形にした出来事だった。この「市民社会とは何か」は、大学の卒論を書く時に手にとった本。

98年の「特定非営利活動促進法」制定の裏話などが書いてある。前半は理論がましいので、ちょっと読みにくいけど、今日のNPOなどが活躍する社会になるまでの日本と世界の変遷がわかる本。

BOOK4|社会起業家 ー社会責任ビジネスの新しい潮流ー

平成後期から令和にかけては、この「社会起業家」という言葉はやや古臭く、死語のようになった気もしているが、私が高校から大学までの2010年台前後では、この言葉がもてはやされていた。言わずもがな、私自身もこの「社会起業家」とやらになることを夢見ていた。

死語になる、ということは、一見「ブームが過ぎた」という考え方もできるが、実際は「この言葉を使わずとも概念が定着した」という考え方もできる。

度々訪れる、未曾有の危機に対して立ち上がる起業家は少なくはないだろう。もし、この概念が今、世の中に定着しているのであれば、なんだかちょっと嬉しい気がする。


BOOK5|やりたいことは全部やれ!

古い本である。著者は言わずもがな、日本で最も有名といっても過言でない経営コンサルタントの大前研一氏。実はこの本、9つ離れた実の兄から、中学入学時にプレゼントとしてもらった本なのだ。当時、「ケイエイコンサルタント?マッキンゼー?」と思いながら読んでいたし、正直、内容がとても面白いという類の本でもないのだが…、忘れられない一節がある。



「私は高校生の頃から、死ぬときのことをひたすら考え、そして悔いのない人生を送るために節目節目でオールクリアしてきた。」


あとがきに書いてあった一文。電卓のACボタンを押してオールクリアにして、次から次へと人生の駒を進めていく大前研一氏を象徴する言葉だと思った。どうも、この一節が兄からの強いメッセージだったような気がして、私自身も大きな選択をする節目でこの言葉を反芻(はんすう)したりするのだ。


BOOK6|いい人生は、最期の5年で決まる

最後の2冊は、私が鹿児島大学病院の生協売店で購入した本。1冊目は、がん哲学外来という”がん患者の心のケア”を専門にしている医師・樋野興夫氏の本。

私はこの本を、病名がつく前(検査入院中で”もしかしたら重度のがんかもしれない”と思っていた時)に、手にとって、ほんの気持ち、心が救われた瞬間があった。

誰しもそうだと思うが、「自分がいつ死ぬか」なんて想像したくもないし、想像もできないと思う。でも、不思議とこの本を読み進めると、「この生命は永遠ではないんだ」とスーッと自然と理解させてくれる。

「人のために何かをする。ー病気になったのは、人のために生きることの大切さに気づくため」という一節は、今日の私の姿勢にも反映されている。


BOOK7|がんでも、なぜか長生きする人の「心」の共通点

やっと7冊目。もうここまで読んでくださっている方も、そうそういないと思うけど、最後の1冊は、6冊目と同じくがんの専門のお医者さんが書いた本で、私の人生の捉え方を180度変えた本だ。もし、あなたががんになったら、手にとってみてほしい。でも、それまでは読まなくていいかも。。当事者ではいと、ピンとこないことが多い本のような気がしている。当時の私が頭を殴られたような感覚になったのはこの一節だ。


私は、「まだ死にたくない」と言われたときは、「まだ、ということは、いくつまで生きたいと思っていますか?あるいは、いくつなら死んでも満足だと思えますか?」と聞くことにしています。(中略)誰も200歳まで生きたいなどと思っていないことはわかっています。それでは、いったいいくつまで、何のために生きていたいのか、突きつめて考えてほしいのです。


はて、何歳まで生きたいか、生きたら満足か、なんて考えたことなかったー…となった当時の私は、短く見積もっても、子が成人し欲を言えば独り立ちするまでは、最低生きていたいものだな〜、なんて妄想をした。今でこそ、人生を逆算した見取り図を手元にもっている。でも、それ通りにならないのが人生てもの。せめて、予定不調和は嬉しいことだけにとどめたいものだ。


ここまで、私の中で「今こそ再読したい本」を7冊ご紹介した。

ここまで読んでくださった方がどれぐらいいるだろうか…?

将来が見えにくい、予測もつかない今日の社会だからこそ、せめて自分自身ぐらいは、天命を意識して日々暮らしたいものだ。

GWが明けて、急にまた日常的な慌ただしさ、忙しさが戻ってきた。

忙しいぐらいがちょうどいい。今はそう思う。

今年もこの季節がやってきた。

昨年から2年連続で取り組んでいる、知覧茶のブランディングイベント「隣のお茶は、青い」だ。

まずは簡単に概要から。

【隣のお茶は、青い2020 |イベント概要】

◆日時:2020年2月1日(土) 14時~17時

◆場所:東京都・築地「DMZ WORK cafe」

◆来場者:完全ご招待制 16名

(カフェ・飲食店経営者、マーケター、イベンター、デザイナー、人材コンサル、ドローン開発者、観光学研究者、メディア関係者などの異業種からのゲスト)

◆内容

・知覧茶の産地と茶業界の現状と課題について伝えるプレゼンテーション

・日本茶カフェ「Saten Japanese Tea」オーナーの小山和裕氏と知覧茶コーディネーターのトークライブ

・多様な茶種を愉しみながら生産者の想いにふれるブーストーク


▼ ちなみに参考までに昨年実施した内容については、過去記事を参照。 

当日は、私の大好きな日本茶カフェ「Saten japanese tea」のオーナー、小山さんに全面的にご協力いただき、トークにスペシャルな知覧茶の抽出方法のデモンストレーションに、と、イベントに華を添えていただいた。


イベントの内容はいたってシンプル。まず導入として知覧茶の現状についてプレゼン形式でお伝えし、小山さんと私でトークセッション。今回のテーマは、「荒茶生産の未来」というタイトルで、コーヒーとお茶との対比構造を示しながら、生産地の将来に思いを馳せた。

その後、3人の各生産者と小山さんとでそれぞれブースを持ち、ゲストとお茶を飲みながら意見交換を行った。


内容は簡単にふれて、企画者の私しか書けない「なぜ、このイベントを実施しているか」というWhy?の部分のみ、何回かに分けながらゆるりと綴っていきたい。


|2年目の挑戦。お茶に関係ないゲスト大集合

2年目の今年は、普段お茶に全く関係ない仕事をしているゲストも多くお招きした。当日参加されたのは、ITや旅行業など茶業界から遠い業界の人材も含め、計16名。

それぞれの視点で、知覧茶について考えたことをアウトプットしていただき、新たな取組みやプロジェクトを生むことを最大の目的していた。

「深い緑の知覧茶は絶対的なPRポイントとなりえる。」「産地として資源は十分にあると思う。外部人材が関わることでシステムが整い、産地への人の流れや物流が大きく変わるのでは。」「実際はそうでないのに、荒茶という言葉が、粗悪品のように聞こえる。言葉自体を“クラフト茶”等表現を変えて消費者に伝えてはどうか。」など、生産地にはない視点から、多くの意見が交わされ、客観的な視点は、今後の知覧茶の取り組みに生きるものばかりだった。

やっぱり異業種の方から意見をもらうって、とても大事。(しみじみ)


|日本茶カフェオーナーが求めるもの、産地とのねじれ

昨年は、茶業界のニューカマーである「日本茶カフェのオーナー」を中心に特に消費者に近い業種の12名の方に参加いただき、荒茶生産地として、様々なご意見やご要望をいただいた。私は、日本茶カフェが大好きだ。…というか、元はただのお客さんだった。

そんな日本茶カフェファンの私が、産地に暮らすようになってわかったのは、カフェと産地はとてもとても遠いということ。

私が日本茶カフェに目覚めた時代は、シングルオリジン(単一農家・単一品種)にこだわるカフェの最盛期。(最近は、少しこの流れも落ち着いてきたような印象もあるが…)。過去に、コーヒーがブルーボトルコーヒーを筆頭にサードウェーブの流れがあったように、日本茶でも、ようやく産地や生産者、品種が注目される世の中になってきていた頃だったと思う。

でも、大規模産地である南九州市はその流れには適合できずにいたと思う。

それは、どうやっても現行の流通構造においては、生産者の名前が出たり、単一品種で小売販売されたりということは、非常に稀な状態であったからだ。


|日本茶カフェに、まずは知覧茶の存在を知ってもらわねば。

単純にニーズがあるならばやるしかない。そう思ってトライしたのが知覧茶コーディネート業という仕事だった。このコーディネート業というのは、情報の非対称性があってはじめて成り立つ仕事だ。

産地には、数多生産者がいて、もちろん多数の品種がある。もっといえばそれぞれの特徴、こだわりがある。でもそれはどこにもまとまって書いてないし、これを書くには相当のリサーチやヒアリング、適宜必要に応じて情報を引き出せるような、”立派な情報公開の箱”がないといけない。

そんなのをすっ飛ばして、「まずは人海戦術だ!」とトライしたのが、この1年だった。荒茶の通常ロットの30キロ以下で、ときには数百グラム単位で販売していく仲介業だ。


はじめてみると、じわっと小売らしい効果が出てきた。荒茶の取引では、当然生産者は、自分のお茶が最終的に誰に届いているか分からなかったのだが、(茶市場で取引されているため、茶市場以降の流れを生産者ではつかめない)小売では、この「人」を通じて、海外のこの「人」に届いていた、とか、この品種はこういう感想が多い、など、今までなかなか生産者に入らなかった声や情報やなんやかんやが入ってくる。


|小ロット取引は数年単位の調整が必要。

なるほど、知覧茶のブランドの価値づけには「小売」だ。

そう確かな感触を感じながら仲介を続けていた矢先。

「例年以上に早いスピードで、もう在庫がなくなりそう。」

とある生産者からそんな声があがってきた。嬉しい悲鳴だ。

でも、嬉しくないこともあった。

なるほど、荒茶生産で生計を立てている生産者が確保できる小売茶はまだまだ少なくて、需要と供給のバランスを調整するのは、容易なことではなく、これはもしかしたら、数年、数十年単位のプロジェクトになるんじゃないか?…と。

どういうことかというと、荒茶(特に新茶)で1年の生計を立てている生産者には「小売を増やして」なんてことを、今の状態ではまだ言えず、小売を求めてくださっている事業者さんを増やそうにも、安定的に供給をお約束できるかは分からず…それゆえに、容易に事業者さんにも営業をかけられない。

なんて、ジレンマ。。

私は過去に、こういった流通に関する事業をさばいたことがないこともあって、明確な打ち手は見つからず。荒茶生産地を否定してみたり、荒茶で取引してもらえる事業者さんを探し回ったり、、とだいぶ迷走した時期を過ごすこととなった。

|小売以外で「知覧茶のブランド価値」をつくるには?知覧茶を資源として捉える

元々、ベンチャーやNPOという比較的スタートアップなところの出身である私は、上記のような課題をもっと、色んな人にオープンにして、聞いていこうと思った。

というか、それしか方法がみつからなかった…のもある。

昨年の「隣のお茶」の来場者には「荒茶生産地の生き残り」について、何度も意見を伺いにいき、元々勤めていたベンチャーの先輩たちにも意見を求めた。しまいには、国の茶業試験場の先生方にも意見を伺いにいった。

すると、だんだん自分には見えてなかった、近隣の飲料業界のコーヒーやら、お酒やら、はたまた一次産業しばりの水産業においても、過去・現在で似たような構造や課題があることがわかってきた。打開策が出てきたというより、徐々に自分の中で、「荒茶生産地だからことできること」について目を向けることができるようになってきたのが大きい。


「知覧茶は概念だ」

昨年の「隣のお茶」で製作した冊子に載せた文言だ。

これは、私が「知覧茶って面白い!」と思った4〜5年前からずっと、思っていること。

知覧茶を荒茶だ、小売だ、というお茶として見るのではなく、人も畑も、この環境も組織も知覧茶にまつわる「あれこれ」すべてに目を向けると、できることは無限にあり、ユニークさが際立ってくる、ということだ。

例えば、旅。

知覧茶の生産者と語りながら繰り広げられる産地旅なんてものは、それぞれの個性が生きていて、やっぱりユニークでワクワクさせられるものだ。

だからこそ、「異業種の人」にこの「知覧茶という資源」を見てもらわないと、と思った。

こうして今年の「隣のお茶」のゲストは、一見茶業から遠そうな”異業種”の方たちにお声掛けしたというような経緯がある。


イベントが終わってから約20日。

ちょっとずつではあるが、面白い案件、面白いアイデアが私のもとに飛び込んできている。


いや〜、だからイベント企画・運営は病みつきになってしまう。。

祭り女のどうしようもない性ってやつなのだろうか?

でも、イベントは終わってからが勝負。

少しでも実を結ぶよう、まがいなりにも頑張ってみようと思う。

茶袋の大手資材メーカーの、株式会社吉村さんが発行している情報誌「茶事記」の

第82号(秋冬)に掲載いただきました。

株式会社吉村の社長・橋本さまが、わざわざ南九州市の私の事務所(兼自宅)まで来てくださり、丁寧にお話を聞いてくださいました。

社長自ら、現場に取材、丁寧に執筆される様子に心打たれ、感服致しました。

出来上がった記事がこちら。

「ガンバルこの人」という連載特集の記事にしていただきました。

(まだまだ大した成果もあげられていない私が、このような場でご紹介いただくのは、大変恐縮です。。)

この記事にあるように、知覧茶の産地らしい尖り、おもしろさを伝えられる人材になれるよう、これからも精進して参ります。

橋本久美子社長、本当にありがとうございました。


昨年からなだらかにスタートさせてきた、

私の主軸の事業「コミュニケーションコンサル」

このサービス、なんだかわかりにくい…とよく言われます。

それもそのはず!このサービス、私がつくった造語で、しかも既存の概念にはないもの。


コンサルという言葉は、現在はクライアントさん向けに使っているものですが、

これを機に事業名を「コミュニケーションプロデュース事業」と改めて定義し、

ここらでこの内容をしっかりめにご紹介してみたいと思います。

定義としてはこういうかんじになっています。

それでは、既存の類似概念との違いを示してみたいと思います。


1|マーケティングの一種なのか?

マーケティングの考え方は多少は影響していますが、全くの別物と捉えてもらいたいです。



2|ブランディングとの関係はどうなのか?

ブランディングを価値の規定だとすればその部分は含んでいます。

ですが、ブランディング戦略の手法はあまり踏襲していないかもしれません。


3|PRということなのか?

PRの方法、考え方は十分に踏襲していると思います。でも、マスメディアへの仕掛け、大きな話題づくりなどは零細個人事業者ゆえに担えません。。

ちなみに、行政がよくつかう「PR」ということばは、業界の同義ではありません。

だいたいは、業界でいう広報のことか、もしくは観光系の部署だとプロモーション(販促活動)のことを意味していると思います。私が目指すことは、販促活動で売れまくることではなく、伝え方を工夫して「じわりじわり」と価値を感じてもらい、手にとってもらうことです。


4|広報ということなのか?

広報の手法については、クライアントさんの状況に応じて利用します。たとえば、行政や大きな組織の場合は、プレスリリースの作成代行・発信をすることで、社会に広く価値を伝えていくことをお手伝いすることがあります。


|既存の概念と大きな違いは「人材育成」を含むこと

ここではじめて「トレーニング」という言葉をあえて使いたいと思います。

私のサービスの肝は、「自分で価値を伝えられるようになること」なんです。

でも、これをうまく伝えられていなかったなー…と今更ながら反省するところです。

私の場合、大なり小なり、「こういう方法で伝える」と決めたら、細かくレクチャーしたり、何度も練習したり、必要に応じて研修を開いたりします。

そんなこんなで、ただ今、地域の農家さんを中心にこの事業を推進させてもらっています。

本当は農家さんや、社会的事業(医療など)の分野に特化して事業化していたのですが、

最近は、あらゆる業種で活用していただけないか、ニーズを探しています。

うちの業界、うちの会社、必要だよ!という方は、ぜひ教えてくださいね。


新元号が「令和」と発表されました。

なんだか勝手に、幕末の明治維新のような気持ちに浸っています。

というのも、
私にとっては今日が「夜明け」だからです。


3月末日をもって、地域おこし協力隊を卒業し、

本日から、完全独立の運びとなりました。


今まで細々と、協力隊の活動の傍らで取り組んでいた

コミュニケーションコンサル業を中心に、事業展開していきます。

というものの、当面の間は、農家のウラカタ「なんでも屋」をします。

現時点で、農家さんからいただいているお仕事は、多岐にわたっていて、

その中には、まだプロと呼べるレベルに達していないものもあります。


圃場管理システム導入支援や、茶の生葉計量システムの開発支援など、
ややIT寄りなものから、県内外での小売茶の販売・販促支援、ワークショップ企画運営、

法人クレド製作など、営業寄りなものまで…etc. 色々です。


特にスマート農業(茶業)については、生産サイドの理解がまだ知識不足で、

今後、畑と工場に入らせてもらい、事務まわりまでじっくりと腰を据えて経験を積んで、

やっとスタートラインに立てるレベルだと思います。

開発サイドと、農家との中間的立場に立てている人間が少ないのが現状です。

一歩一歩、経験を積みながら、この分野で早く一人前になれるよう、頑張りたいと思います。


営業サイドについては、経験があるものの、

法人営業も多くなりそうなので、もっと力をつけられるように…と思っています。


ただの宣言みたいな記事になってしまいましたが、

私にとって夜明けの今日、これからの仕事の仕方、スタイルも含めて、

色々と想いを馳せる時間を過ごしています。

早く、各方面で一人前のプランナーになれるよう、
日々一歩一歩着実に進んでいこうと思います。

連日、地域のお茶農家さんと、来月からの仕事の打ち合わせをしています。

まだ完全独立したてのひよっこプランナーの私に、

農家さんが「私に損がないように」「生計をきちんと立てられるように」と、

丁寧に仕事をご依頼してくださる様子に、胸がいっぱいです。


打ち合わせをしていて、「お茶農家のしごとは、今の時代、頭脳戦なんだな」

と思わせられる瞬間が多く、農家という職業への見方がどんどん変わっていく自分がいます。

地域には茶以外の作物の農家さんも大勢います。

その方たちが決まっていうのは、「お茶は別格だからさ」という言葉。

お茶農家さんが「野菜をつくる(園芸に手をだす)」ということは、

他の作物農家さんからすると、あまりいい気持ちではないという話もあったり…

このまち全体が、お茶への支援が手厚いということも、少し窮屈な思いをしている様子。


そういう方たちがいることも、頭の片隅に置きつつ、

3世代目で「農家2.0」へと進化している様子を、もっと私は伝えていきたいし、
農家さんのやりたいことや想いを少しでも形にしたい、と思うわけです。


私は新しい知覧茶の営業担当になる予定。

チームをつくっていき、農家間でも新しい連携・連帯のネットワークをつくります。


やりたいこと、いただけそうなお仕事は色々あるものの…

私の時間と体がもつか、独立した途端にキャパオーバーにならないかは懸念ポイント。

やってみないと分からないけれど…ご迷惑がかからないように、しっかりと判断軸を持っていたいと思うところです。


茶業の専門情報誌、その名も月刊「茶」。

すごいタイトルで、最初聞いた時は震えた。笑

この情報誌の発行元は「静岡県茶業会議所」ということだが、

そもそも茶業界の情報誌ってほとんどないということもあり、唯一無二の業界誌といっても過言ではないかもしれない…。

(日本茶インストラクター協会でも、会員向けに情報を出してると思うが、
茶業者で読んでいる人は少ないと思うので…)

月刊「茶」2019年 3月号 〜ワイングラスで楽しむ Bottling tea~

そして、この情報誌の巻頭言が、今年一年間「地域おこし協力隊」特集をされるとのことで、

今回、執筆のご依頼を受けた。本当に有り難いことに、卒業月にしかも、
集大成のイベントの後の発売で、とても良いタイミングだった。

今、「知覧茶」に対して私が感じていること、伝えたい想いをぎゅっと凝縮して、書いている。

有り難いことに考えを伝える場は多い。でも、それを行動にしてこそ。

ブランド価値の向上に向けて、もっと動いていきたい。

知覧茶イベント「隣のお茶は、青い」ちょっとした裏話

連続記事を書いています。

地域おこし協力隊での活動総まとめ、今回は【後編】。

前回の記事はこちら ↓

茶業専門の課への異動をしたのが、2018年10月のこと。

そこから卒業までの半年間のカウントダウンが始まった。

異動前から少し動きはじめていたプロジェクトがあった。

それは、「隣のお茶は、青い」という知覧茶のクローズドイベントの企画運営である。


このイベント、簡単にいうと「お見合いイベント」である。

茶業のプロの方たちに”知覧茶に惚れてもらおう”というプロジェクトであって、知覧茶という”女性”をいかに輝かせるか、が勝負。


なので、知覧茶を美しく魅せるためにはプロの「デザイン」の力が必要で、

今回イベントをつくるにあたっては、同じく地域おこし協力隊でもあるデザイナーの仲間に助けを求めた。

そもそも、知覧茶の中身のポテンシャルはスゴイ。

中身を知れば、誰もが惚れてくれるだろう、と思う。(ここには自信がある。)


それゆえに、そのポテンシャルを体感してもらうことが一番重要であって、

体感するまでに、最大限に気持ちを高めることが重要。

素敵な空間においてちょっとだけ良い意味で”酔う”ことも大事なのかも、と思っていた。

こうして、ちょっと”ほろ酔い”できそうな、ステキ空間は、茶産地に移住をしてきたデザイナーたちの手で創り上げられた。茶の枝をふんだんにつかった空間づくりは、来場者のみなさんのハートをぐっとつかんだ、(と勝手に思っている。笑)

そしてハートをつかむ秘密兵器「プレミアム冊子」もつくってもらい、

初めて知覧茶のプロ向けの冊子を整えることができた。



2月18日に東京・原宿で実施したイベント。その内容は、いたってシンプル。

生産者のトークイベントの後、みんなで交流、そして知覧茶の試飲。

消費地から遠く離れた土地で暮らす「生産者」と、東京で第一線を走る、日本茶界の「ニューリーダー」の方たちとが交流することで、はじめてスタート地点に立てると信じていた。


今回、ご招待したのは日本茶カフェやレストランを営むオーナーさんたち12組。

「生産者さんの話は面白い」「今まで持っていた素朴な疑問が解決できた!」

と、生産者との交流を通して、”学び”を得られたという感想を多数いただいた。


「生産者が語る言葉の力はすごい。」

改めてそう感じさせられた。魅力の源はここだったんだ、と。


過去に多種多様なイベントを企画運営してきたが、今回ほど時間をかけたイベントはない。

加えて、普段は一人で考え、壁にぶつかっても相談できる相手もいないのだが、

今回は、いつも「仲間」がいた。

自分ひとりでできることなんて、せいぜい知れてるな、と思うのだ。

着想して設計して、そしてコーディネート(調整)して…、形にはなかなか残らない。

でも、仲間の力があれば「形に残すこと」ができる。なんてステキなんだろう。

行政事業を担いながら、民間手法で、地域の仲間たちと、理想とする形をつくることができた。

過去に失敗事例といわれた協力隊が、ほんの少し光を浴びた瞬間だったと思う。



全国で色々と語られる「地域おこし協力隊」。

前編でも書いたが、私は異例の「行政どっぷり協力隊」だった。

卒業前に取り組んだこのイベントは、

行政案件を民間手法でトライすることができた、これが最初で最後の、

そして私にとっては唯一無二の協力隊としての成果だった。

タイミング、場所、そして仲間…色々と条件が合致した結果だったと思う。

何度もいうが、ひとりではなし得ないことだった。


そんな、ひとりでは”微力”な私が、協力隊を卒業して、

この道で独立をすることになった。

やりたいこと、想いは十分。でも、そうそう無理はできない身体であるゆえに、

まずは農家さんの「ウラカタ」から、腰を据えてじっくりやってみようと思う。


裏と表と両方の世界を行き来しながら、

ちょっとずつ新しい事業にも取り組みたいと思っている。

特に目新しいわけでも、斬新なわけではない。

でも、他の業界では当たり前にできていることが、まだ整えられていないのが茶業界。

少しは私の異業種の視点が役に立つかもしれない。


大したことじゃない、ちょっとした事業。

それでいい、それがいい。

背伸びしすぎない、無理しすぎないスタイルで、ぼちぼちと歩いていきたい。



昨夜行われた、南九州市地域おこし協力隊の報告会を兼ねたイベント「地域おこし協力隊と考える農業のミライ」。2年目地域おこし協力隊の私は、本来であれば2回目の報告会のはずだが、昨年度末は病休をとっていた関係で、卒業を控える私は、最初で最後の報告会となった。

「地域おこし協力隊」という立場で物事を述べるのは、極めて難しい。

恐らく、この言葉をつかって文章を書くのは、これが最初で最後だと思う。

なぜなら、誤解が多い言葉だからだ。


地域おこし協力隊は、行政の事業の中で雇用されていながら、存在感(あえてここでは存在感という言葉をつかおう)は行政ではなないというグレーな立場だ。民間経験者が、行政の制度上で雇用され、多くはどこかしたらの団体・組織へ派遣されるなどして、活動拠点を構える。

だが私の場合は、完全に「行政的存在」に徹していた。役場に勤務し、首から名札を下げ、朝礼から終業まで、役場の職員と机を並べることが多かった。受け持つ事業領域も、ほぼ行政職員と同じで、通常行政職員が担うべき事業の一部を、民間的視点で担当するという異例の立場の協力隊だったと思う。

言うなれば、「行政(を助ける)協力隊」である。


元々スタートアップ出身の私は、行政とは真逆の思考を持っていると思う。

そもそも沢山の決裁を待っている暇なんてない。孫社長じゃないけど、社長の「やりましょう」の一言をすぐにもらえるような、ピッチやプレゼンをすれば、すぐにプロジェクトが動き出すような環境にいた。

だが、郷に入れば郷に従え、だ。やりたいことをやるためには、行政流を完全にマスターしなければならない。最初の年は、決裁をもらえるための文書づくり(文書の体裁で、たとえば改行の仕方、数字の打ち方一つまで習得できるよう…)努力した。

上司や課内での説明では、どのポイントが必要なのか、他の係員の様子をみながら必死に考えた。結果、だいたいのことにおいて「外してはいけないポイント」「懸念されるであろう事項」などが感覚として分かるようになってきた。

もうここまでくると、行政組織の一員に近づいてくる。


私は、2年間の間でふたつの部署を経験した。

協力隊としては異例の異動であり、移住支援業務で採用され、病休を経て復帰したのは、茶業支援業務だった。採用後半年あまりで病休に入った私は、何も大した成果も出せず、周囲からみたら”ただの行政嘱託職員”に見えたのだろう…「役場を拠点とする協力隊は成果を出せない」といつの間にか”失敗事例”のレッテルを貼られるようになった。

加えて、「移住支援業務のような行政が本来やるべきことは、協力隊任期卒業後の生業に繋がらないので、協力隊業務とするべきではない」などという話がまことしやかに、県内中に広がっていった。

それを知った私は、抗がん剤治療で倒れている病院のベッドの上で泣いた。そして、多くの県内の移住支援をやっている協力隊員の顔が浮かび、申し訳ない気持ちになった。


もうダメかもしれない…。活動中も病休中も、踏みとどまなくなりそうになり、何度も辞めようと思った。復帰したい気持ち、復帰したくない気持ち、その両方が交錯する中で、お世話になっているお茶農家さんに想いを話すと「うちで仕事したらいいよ」と言ってくれた。「トーコちゃんにお願いしたいことはいっぱいあるんだよね」そう言ってくれた。

吹っ切れた。協力隊が全てではない。そもそも私を「協力隊の川口」としてではなく、「川口塔子」個人として信頼し求めてくれている人がいることに、気がついた。仕事だけではなく、暮らしている地域でも、”若くてちょっと面白いことしてくれそうな地域住民(移住者)”と思って受け入れてくれている人たちもいる。


こうなったら、最後の一年と区切りをつけて、やれるところまでやりきろうじゃないか。

こうして復帰直後の所属課との面談時に「年度内で辞めることにしました。」と伝えた。

そこから茶業専門の課に異動。半年間という協力隊卒業までのカウントダウンがはじまった。





個人事業のWEBページを開設した。

こうしてブログをはじめるにあたり,

今の私の核となってる考え方を書いていこうと思う。


ちょうど今から一年前,私は生まれてはじめて「あー。もう死ぬのかも。」と思った。

過去に進路やキャリアなど大きな挫折は多かった方だと思っていたが,

ついにここまできたか,というのが本音だった。

がんになった。

しかも,「悪性軟部腫瘍」という人口10万人あたり約3人しかならないという,

なんとも珍しい部類の太ももに発症するがん(希少がん)で,

ケースが少ないゆえに治療法も確実とはいえない。

そのため私の選択はいつも究極の「一か八か」の二択だった。

(闘病のことはまた改めて書ければと思うが,これがまた振り返るには

体力も気力も要するもので…気軽にまた書きますね,と言えないのがやや難。)


幸いなことに,これでもかという幸運が重なって,

病気がわかってから約10ヶ月の闘病を経て,平穏な暮らしが戻ってきた。

奇跡が重なるたびに,私は生かされている,としか思えなくなった。


もっともっと若い頃は,「何者かになることへの憧れ」があった。

恐らく誰もが通る道なんだろうと思う。

「何者か」というそれは,「誰かになりたい」のではなく,

「凄い人になりたい」という高みを目指す向上心や野心の類だったように思える。

社会起業家に憧れて「革新的な事業をつくること」が正義だと信じてやまなかった。


一時期,仕事柄,毎月にように新聞などのメディアに載っていた時期があった。

家族はもとより,それを喜ぶ人や称賛・評価する人がいて,

実態よりも(地域)社会の自分の価値が高まったような錯覚があった。


でも,闘病を経た私は,全くもってそういう気持ちがなくなった。

なんなら目立たず,ひっそりとしていたい。

世の中にない斬新な新規事業を生み,それを育てていくような大きなシゴトもいいけど,

髪を振り乱して,というのか…不眠不休でコンビニ弁当を流し込むような生活は

もう私にはできない。

今ある身体で「よりよく生きる」ためには,

背伸びをせずに等身大の自分でいることが一番だと思ったからだ。



でも昔から変わらない価値観があって,

”誰かにとって”「必要とされる人でありたい」と今は今まで以上に強く願っている。

それはシゴトだけでなく,プライベートでも。


有り難いことに,社会復帰してから「待ってたよ」と言って

一緒にシゴトをしよう,と言ってくれる人たちがいる。


私が身につけてきた(一見可視化できない)思考をつかったスキルは,

地方ではお金になりにくいといわれてきた。

地方ではそこにお金を払う文化がない,と。


でも少しずつだが,基幹産業を担う農家さんや,それを支える人たちが,

「次の時代に向けて変わりたい」と強く願い,私に声をかけてきてくれる。

もっと私も役に立ちたい。そのためにもっと勉強と経験を積みたい。

今は「目の前のあなた」のために生きたい。シゴトをしたい。