地域おこし協力隊 卒業まであと1ヶ月 〜私と協力隊〜【前編】
昨夜行われた、南九州市地域おこし協力隊の報告会を兼ねたイベント「地域おこし協力隊と考える農業のミライ」。2年目地域おこし協力隊の私は、本来であれば2回目の報告会のはずだが、昨年度末は病休をとっていた関係で、卒業を控える私は、最初で最後の報告会となった。
「地域おこし協力隊」という立場で物事を述べるのは、極めて難しい。
恐らく、この言葉をつかって文章を書くのは、これが最初で最後だと思う。
なぜなら、誤解が多い言葉だからだ。
地域おこし協力隊は、行政の事業の中で雇用されていながら、存在感(あえてここでは存在感という言葉をつかおう)は行政ではなないというグレーな立場だ。民間経験者が、行政の制度上で雇用され、多くはどこかしたらの団体・組織へ派遣されるなどして、活動拠点を構える。
だが私の場合は、完全に「行政的存在」に徹していた。役場に勤務し、首から名札を下げ、朝礼から終業まで、役場の職員と机を並べることが多かった。受け持つ事業領域も、ほぼ行政職員と同じで、通常行政職員が担うべき事業の一部を、民間的視点で担当するという異例の立場の協力隊だったと思う。
言うなれば、「行政(を助ける)協力隊」である。
元々スタートアップ出身の私は、行政とは真逆の思考を持っていると思う。
そもそも沢山の決裁を待っている暇なんてない。孫社長じゃないけど、社長の「やりましょう」の一言をすぐにもらえるような、ピッチやプレゼンをすれば、すぐにプロジェクトが動き出すような環境にいた。
だが、郷に入れば郷に従え、だ。やりたいことをやるためには、行政流を完全にマスターしなければならない。最初の年は、決裁をもらえるための文書づくり(文書の体裁で、たとえば改行の仕方、数字の打ち方一つまで習得できるよう…)努力した。
上司や課内での説明では、どのポイントが必要なのか、他の係員の様子をみながら必死に考えた。結果、だいたいのことにおいて「外してはいけないポイント」「懸念されるであろう事項」などが感覚として分かるようになってきた。
もうここまでくると、行政組織の一員に近づいてくる。
私は、2年間の間でふたつの部署を経験した。
協力隊としては異例の異動であり、移住支援業務で採用され、病休を経て復帰したのは、茶業支援業務だった。採用後半年あまりで病休に入った私は、何も大した成果も出せず、周囲からみたら”ただの行政嘱託職員”に見えたのだろう…「役場を拠点とする協力隊は成果を出せない」といつの間にか”失敗事例”のレッテルを貼られるようになった。
加えて、「移住支援業務のような行政が本来やるべきことは、協力隊任期卒業後の生業に繋がらないので、協力隊業務とするべきではない」などという話がまことしやかに、県内中に広がっていった。
それを知った私は、抗がん剤治療で倒れている病院のベッドの上で泣いた。そして、多くの県内の移住支援をやっている協力隊員の顔が浮かび、申し訳ない気持ちになった。
もうダメかもしれない…。活動中も病休中も、踏みとどまなくなりそうになり、何度も辞めようと思った。復帰したい気持ち、復帰したくない気持ち、その両方が交錯する中で、お世話になっているお茶農家さんに想いを話すと「うちで仕事したらいいよ」と言ってくれた。「トーコちゃんにお願いしたいことはいっぱいあるんだよね」そう言ってくれた。
吹っ切れた。協力隊が全てではない。そもそも私を「協力隊の川口」としてではなく、「川口塔子」個人として信頼し求めてくれている人がいることに、気がついた。仕事だけではなく、暮らしている地域でも、”若くてちょっと面白いことしてくれそうな地域住民(移住者)”と思って受け入れてくれている人たちもいる。
こうなったら、最後の一年と区切りをつけて、やれるところまでやりきろうじゃないか。
こうして復帰直後の所属課との面談時に「年度内で辞めることにしました。」と伝えた。
そこから茶業専門の課に異動。半年間という協力隊卒業までのカウントダウンがはじまった。
0コメント